コロナ再燃

コロナ再燃:忘却と油断の病理

「再燃」という表現には、どこか人間の怠慢を責め立てるような響きがある。一度は収束したと信じたい心理と、現実の感染動態の齟齬。そのわずかな隙間に、ウイルスではなく私たちの油断が入り込む。

序章:再燃という言葉の居心地の悪さ

「再燃」とは、いったん鎮まった炎が、油断の隙を縫って再び酸素を得る現象の比喩である。街角からビニールカーテンが外れ、消毒液は店舗の片隅へ押しやられ、マスクは「もう季節外れ」とでも言わんばかりにカバンの底に沈む。だが、感染症は人の希望を忖度しない。祭りの太鼓と同じリズムで、人の往来に寄り添って、淡々と増えていく。

この「終わったことにしたい」という集団心理は、科学的根拠よりも物語の力に引き寄せられる。ニュースは“収束”の見出しを愛し、政治は“日常回帰”の演出を好み、経済は“消費の正常化”を待ち望む。そうして、感染症対策は生活の背景へと退く。

第一章:記憶喪失という社会的疾患

巨大災害も、戦争も、感染症も、やがて「思い出」になる。人間は忘れることで前へ進む動物だが、同時に忘れることで同じ穴に落ちる。コロナ禍の初期、私たちは“未知への恐怖”という真剣さを持っていた。だが数年のうちに、その恐怖は“慣れ”に変わり、“慣れ”は“軽視”に変わる。

「もう大丈夫だ」と言いながら、「大丈夫であってほしい」と祈る。祈りは尊いが、感染動態は祈りに従わない。祈りは政策を柔らかくし、行動を大胆にし、結果として接触機会を増やす。再燃の火口は、しばしばこの集合的健忘のただ中にある。

第二章:夏という舞台装置

「冬に流行する」という素朴な思い込みは、エアコンの効いた密な空間、睡眠不足、脱水、そして「夏風邪」として軽視される咽頭痛の前では無力である。祭り、帰省、旅行、イベントという人流の増大は、ウイルスにとっては豊穣の季節だ。熱中症との鑑別が難しい倦怠や頭痛は、検査のタイミングを遅らせ、統計の谷を作る。

真夏の夜、気温は下がらず、湿度は落ちにくい。室内での長時間滞在が増え、換気は簡素化される。こうして、夏は「流行しない季節」ではなく「気づきにくい季節」として、感染曲線の下支えを担う。

第三章:専門家の沈黙

メディアは恐怖より安堵を好む。視聴者は危機より娯楽を欲する。結果として、専門家の声は“緊急時の召喚”へと限定され、平時の助言は“人を集めない情報”として埋もれていく。だが感染症における平時とは、次の波に備える時間の別名である。声が小さくなるほど、備えも小さくなる。

専門家の側にも疲労はある。一次情報の更新頻度は落ち、合意のない論点を巡って消耗が続く。そうして「科学の速度」と「社会の期待」が乖離し、説明のコストが跳ね上がる。沈黙は無関心ではない。沈黙はむしろ、言葉が届かなくなったことの証左である。

第四章:統計の裏側

感染者数は真実の影に過ぎない。検査の受検行動、検査体制、検出閾値、自己検査の申告率──すべてが数字を歪める。グラフが下がったのか、測定が下がったのか。そこを区別できなければ、意思決定は誤る。

統計の読み方は、感染症のリテラシーの中核である。移動平均、遅延、報告間隔、母集団の変化。これらを無視した“数字の良し悪し”は、古代の占いに等しい。数字で安心したい誘惑を抑え、数字で考える習慣を取り戻す必要がある。

第五章:医療現場の疲弊

夏季はもともと熱中症、脱水、消化器感染、外傷で救急は忙しい。その上に「コロナ疑い」という隔離運用が重なると、動線は複雑化し、ベッドは滞留し、スタッフは摩耗する。現場の工夫は無尽蔵ではない。制度設計が“現場の創意工夫”に過剰に期待するとき、それは現場放棄の婉曲表現になる。

医療は人で動く。隔離室の清掃、PPEの着脱、ゾーニングの確認、同意説明。どれも“見えない労力”だ。再燃の影響は、数字より先に現場の空気に現れる。疲れた空気は、やがて実数へ翻訳される。

第六章:漢方という異端の処方

標準治療が限られる領域では、補完的アプローチをめぐる議論が必ず浮上する。発熱・咳嗽・倦怠といった症候群に対し、柴胡剤や麻黄剤などが症状緩和に寄与する可能性は臨床の現場で繰り返し観察されてきた。もちろん、万能視するのは誤りだ。だが、“根拠が不十分”を理由に一律に排除する姿勢は、患者の苦痛の多様性を過小評価する。

重要なのは、適応の見極めとリスク管理、そして説明責任である。補完療法の検討は、標準治療の代替ではなく補助としての位置づけを明確にし、個別性を尊重しつつ記録を残すことにある。

終章:再燃は終焉ではない

ウイルスが求めるのは滅亡ではなく共存だ。私たちが学ぶべきは、恐れではなく態度である。忘れず、慣れず、しかし怯えすぎない。換気、休息、必要時の検査、発熱時の無理な出勤をやめる──地味で、だが確実な行為の総和が、再燃の波を小さくする。再燃は、私たちが何度でも学び直すための鏡である。と、ひとりごつ