熱中症という社会病理 〜炎暑に浮かぶ「自己責任」の亡霊〜

【序】――また夏が来た。そして、また人が倒れる

今年も、例の如く、気温が「観測史上最高」を更新し、湿度が「熱帯雨林並み」とか「生きているだけで修行」などとメディアがはしゃぐ季節になった。救急車が立て続けに出動し、体育館の床には意識を失った学生が転がり、路上にはスーツ姿の男性がしゃがみ込んでいる。ご多分に漏れず、熱中症だ。

いったい何度、同じ夏を繰り返すのか。

マスコミは「水分をこまめに」と念仏を唱え、自治体は「エアコンを活用しましょう」と呼びかけるが、これは本当に「個人」が抱える問題なのだろうか?
この“社会性を欠いた”熱中症対策に、毎年、うんざりする。

【I】熱中症の正体――「症候群」であり、「警告」でもある

「熱中症」とは、暑熱環境下で体温調節が破綻し、体液・電解質のバランスが崩れることにより生じる一連の病態の総称である。
医学的には「熱疲労」「熱射病」「熱痙攣」などに分類されるが、要するに人体が環境に敗北する過程だ。

それはある意味で、「環境による暴力」である。それが「自然」から来るものであれ、「都市構造」から来るものであれ。

しかし日本では、「水を飲め」「帽子をかぶれ」と自己責任の文脈に落とし込む傾向がある。あまりに短絡的である。

【II】都市設計という名の熱源装置

本来、都市とは人が快適に生きるために設計されるべきものであるはずだ。だが現実の都市――特に東京のビル街を見ていると、それが「人間の生理」をいかに無視しているかがわかる。

アスファルトの照り返し、風の通らぬビルの谷間、エアコンの廃熱。
働き方改革とは名ばかりの長時間通勤にスーツ着用。
エアコンのない体育館で倒れる子どもたち。

都市は「暑さ」という名の拷問部屋になっている。

【III】行政の無策――予算はどこへ消えるのか

自治体は毎年、ポスターを掲示し、WBGT指数を発表し、クールシェアを設けて満足している。
しかし、それが現場の高齢者や子ども、路上生活者にどれほど届いているのか、本気で検証されたことがあるだろうか。

結局のところ、熱中症対策とは“やってる感”の演出に過ぎないのではないか。

【IV】エアコン万能信仰への警鐘

「エアコンを使いましょう」――もっともだ。しかし、その前提はあまりにも多い。

  • 電気代を払えるか?
  • エアコンが設置されている住宅か?
  • 高齢者が使いこなせるか?
  • 設定温度は適切か?

エアコン神話にすがる間に、孤独な死が生まれる。

【V】医療現場の現実――汗まみれの搬送、混乱する現場

熱中症は、予防可能な災害であるにもかかわらず、毎夏医療現場を混乱させる。
「また熱中症ですか…」という疲弊した声。
これは、社会が何も学ばず、繰り返している証拠である。

【VI】漢方からの視点――体の声を聞くという思想

現代医学が「数値と電解質」に終始する一方、漢方は体の“声”を聞く。

  • 清暑益気湯:夏バテや脱力感に。
  • 補中益気湯:胃腸虚弱や食欲低下に。
  • 五苓散:水分バランスの乱れ、頭痛・口渇に。
  • 麦門冬湯・柴胡桂枝乾姜湯・人参湯:虚弱・乾燥・冷えの補助に。
  • 白虎加人参湯:気逆性の熱、口渇、いらつき、微熱など気陰両虚の状態に。

「中から整える」――それが漢方の哲学であり、現代人の生き方への問いでもある。

【VII】まとめ――熱中症とは文明の副産物である

熱中症は「暑さに弱い個人」の問題ではない。
それは気候政策、都市設計、福祉制度、そして無関心の集積である。

「暑さに気をつけましょう」と言う前に、私たちはこう問わなければならない。
――なぜ、同じ死を繰り返すのか?

答えは明白だ。
この社会は、「熱」に対して無策なのではなく、「人」に対して無関心なのだ。

とひとりごつ。